戦争を考える。東京大空襲・戦災資料センターを学生たちが訪問

 1945年3月10日の東京大空襲で東京の下町一帯は焼け野原となりました。その惨状を伝える東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」を、党の呼びかけに応じて参加した高校生、大学生が訪問し、空襲体験者の話を聞きました。ウクライナ情勢等により戦争がリアリティを帯びる中、若い人たちが何を感じたか。

このセンターは、2002年に開館した民立民営の施設です。10万人もの命が失われた東京大空襲であるにも関わらず、それを専門に扱い常設で展示しているのは、ここ1ヵ所しかありません。個人からの寄付金等で運営されており、東京都民にさえあまり知られていません。戦争の体験を、次の世代を担う若者たちに引き継ぎ、「いのちと平和のバトンを、しっかりと未来に受け渡すために」を目標としていますが、大空襲から77年が経ち、記憶の継承は、私たちに託された課題です。体験者の話を聴く

写真③二瓶さん.jpg

 8歳の時に、東京大空襲を体験した二瓶治代(85歳)さんのお話を伺いました。
 3月に卒業式があるので、子どもたちが疎開先から戻ってきて、町がにぎやかになりました。私はとても嬉しかったのを覚えています。その日も朝から元気よく外で遊び、夜は1階の6帖間に家族5人で横になりました。
 夜10時半頃に警戒警報が鳴り、しばらくして防空壕に入りました。外で様子を見ていた父親が「ここにいたら危険だから外に出ろ」と言いました。お隣のおばさんが私の洋服の袖をひっぱり、「外は危険だから防空壕にいたほうがいい」と言いましたが、その手をはねのけて外に出ました。外は一面火の川のようになっていて、折からの強風で屋根瓦や柱、布団といった大きいものが燃えながら飛んできて、容赦なく人にぶつかってきました。背負っている赤ちゃんに火の粉がふりかかり、燃えていることに気づかないまま走り抜けていく親たちの姿がありました。大人と歩調の合わない子どもたちは火の地面に転び、悲鳴をあげながら転がっていきました。
 私は、見失った家族と奇跡的に再会できましたが、防空壕の中にいた人たちや「明日、遊ぼう」と約束したお友だちにも二度と会えませんでした。道路の上は死体だらけでした。死体を踏まないように、つま先立ちで歩きました。今まで聞こえていた叫び声も炎も何もかもなくなり、シーンと静まり返り、動くものもなければ、音もしませんでした。
 今の社会の雰囲気は、私の子ども時代と似ています。戦争は始まる前に止めないといけません。戦争は始まったら止めることができません。戦争だけはしてはいけません。

※【戦争を考える。】❷に続きます。

 

 

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